
Rokko
生まれ育ちも住居も職場も神戸です。
若い頃は自転車で野宿サイクリング大好きでした。現在も電チャ通勤してます。
一昨年還暦を迎え、人生の残量もあと25%くらい。スマホなら「低電力モード」を勧められるころ。バイクに乗れなくなってから後悔したくないので、自分のやりたいことに躊躇はしたくないです。
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近江八幡の運河、八幡堀。
市の観光名所として今は屋形船が通り、16世紀の石垣もそのままに、情緒ある風景を作り上げています。
豊臣秀次が作った近江八幡市の街並。初めて回りましたが、近江商人の家々が今も文化財として残され、京都と見紛うくらい和の情趣が漂う街です。
秀次は豊臣秀吉の甥っ子なのですが、最後は秀吉によって殺されているのです。今は亡き高校時代の恩師が、秀吉の所業について生々しく語っていたので、英雄だと思っていた秀吉のイメージが一変したのを覚えています。
その恩師は私の卒業後、歴史の本を自費出版したので私も一部分けてもらいました。以下はその本の中の秀次に関する部分の抜粋です。文語体で書かれているので勝手ですが文体を少し改めました。
「秀吉は子宝に恵まれず、困りきって姉の子の秀次を後継ぎに迎えた。ところがその後突然秀吉に実の子ができたので、秀次に対する気持ちが手のひらを返すように一変した。
秀次は、近江八幡の立派な城下の街並みを作って領民には慕われていたらしい。その秀次が朝廷に献金したのを、まるで謀反の意図があるかのようにこじつけられ、秀吉の命によって切腹となった。明らかにでっちあげなのだが、もはや秀吉に邪魔者扱いされていた秀次の哀れな境遇が読み取れる。
しかし気の毒なのはこの事件の巻き添えを食った人たちだ。秀次の親族39名は1人残らず三条河原で公開処刑にされ、その中には1歳にもならない赤ん坊までいた。少しでも人間の心を持つ人間がいたらこんな子供たちの首を斬ったり刺し殺したりすることには耐えられなかっただろう。この歴史的な大量虐殺の張本人が秀吉だと言うことをわれわれは覚えておくべきであろう。」
(田中勝春著「道誉京を歩く」2000年発行)
とんでもない目にあった秀次ですが、せめてもの慰めは、彼が作った近江八幡の城下町が、今も訪れる人々を憩わせる街並みを残しているということでしょうか。