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北海道に住んでいます。
バイクブームだった80年代に青春を過ごしたおかげで、DNAレベルにバイク愛が刷り込まれました。16才の細胞に流れ込んだままです。
僕の人生はRZ50て始まり、GPZ900Rによって方向付けされました。それは、いまだに続いているようです。
直列4気筒エンジン以外にバイクの価値を見出せない男だと思っていたのですが、癖のあるVツインに乗り出したのは自分でも驚きです(歳かな?)
Kawasaki信者ですが、カワサキオンリーという訳ではないのです。
バイク歴
RZ50
GSX250S刀
CB400SF
ZZ-R400
GPZ900R(現)
ZX-11
スポーツスターXL1200S
K1200R
ZRX1200R(現)
Z900RS
V7Special(現)
よろしくお願いします。



10月11日。今日はラストラン。
北海道の気温は低いですが、まだ乗る事はできます。
実は、12Rの仲間と走るのがラストなんです。
彼は、来年の3月に本州への転勤が決まっており、バイクは連休最後の月曜日に移動を前提として冬じまいしてしまいます。
次に走る事ができるとすれば、僕が900km彼方の彼の転勤地に出向くか、彼が北海道へツーリングに来るか。
おそらく彼は、次の転地で定年となり、そのままそこに居住する事でしょう。
彼と出会ったのは30年も前。僕より少しだけ年下の彼はまるで少年のようでした。
90年代中期まで、自動二輪の免許システムに「大型免許」はありませんでした。自動二輪は400ccまでの限定条件が付いており、それ以上となると、その限定を解除する必要がありました。合格率は3%とも6%とも言われる「落とすための」制度でした。
当時、20代だった僕らは、その理不尽な免許制度をぐぐり抜けるために出会った仲間でした。
春先の4月に練習場の学園に入校して、降雪によって二輪の試験が出来なくなる10月中旬まで練習と試験を繰り返します。
記憶によれば、ひとシーズン乗り放題、教官付きで15万円程だったと思います。高かったのか安かったのか今では判別もつきません。当時、大型バイクに乗るためには、この方法しかなかった、という事です。
僕がチャレンジした年で、一番早く受かったのは2回目の人でした。6月上旬だったと思います。
僕が受かったのは4回目。8月9日。とにかく嬉しかった。長男が産まれるまでは、人生で最良の日でした。
彼が受かったのは6回目。当然、一緒に走りました。僕は事前に買っておいた、今でも乗っているGPZで。彼はなんと500SS、そう、マッハ3で初乗り。白煙が凄くて、終始、後ろを走らせました。
他の仲間で1番遅かったのは11回目の人でした、10月上旬。本当にギリギリでした。
その後、学園で出会った仲間とバイクを乗り回すわけですが、苦しんだ記憶が仲間意識を生み出すのか、強固なものでした。1番多い時で、15人くらい集まっていたと思います。
10年経ち、15年経ち、転勤や生活の変化があり櫛の歯がぬけるように人が減っていきました。生きていくのに関係がないどころか、邪魔にさえなるバイクです。結婚を機に降りていく人が多かったと思います。
毎週のように一緒に走った仲間達も、気がつくと4、5人しか残っていませんでした。僕も結婚を機にバイクに接する時間は激減しました。そんな中、彼も転勤になってしまい、気心知れたバイク仲間は誰もいなくなりました。
それから10年あまり。僕は家庭の事でほとんどバイクには乗れませんでした。2年程全く乗れない時があり、一年の走行距離が200Kmという年もありました。わりと自由に乗れるようになったのはここ5.6年でしょうか。
実は結婚する時、妻に一つだけお願いをしました。どんな事があってもバイクだけは売らないで欲しい。乗れない時は、車検を切って車庫においておく。そのおかげで今に繋がっているのだと思います。色々と言いたい事はあるでしょうが、何も言わずにバイク趣味を続けさせてくれている妻には感謝しかありません。
そんな状況が続いていた中、彼が再び帰って来た時は嬉しかったですね。ただ、期間は初めから決まっていて、2年間でした。
2人とも昔は、ずいぶん無茶苦茶な走りかたをしましたが、さすがにジェントルな走りに変化していました。しかし、北海道専用機にZX12Rを選ぶあたり、根っこの部分は昔のままですよね。
この2年間。あまり沢山は走れませんでしたが、僕らの人生においては特別というか、ボーナスのような時間だったと思います。
この先、また、一緒に走る時もあると信じています。



